忠岡だんじり紀行 明治甚五郎の香りを求めて・・


 平成16年5月22日、暇になったので「泉州だんぢり談義」(若松 均著)に書かれていた「櫻井義国碑」を探しに出かけました。忠岡町内には明治甚五郎こと櫻井義国師が実際にいたことを示す「旧櫻井義国邸」(料亭だったと言う。現在も残っているが、改装されていて形だけ昔のまま)や櫻井義国師の子孫のお宅(現在は彫物師ではない)も現在忠岡町内の紀州街道沿いにありました。(現在は個人宅なので掲載しません)

まず忠岡のだんじりが宮入する忠岡神社にやってきました。旧義国邸も近くにあるので何度か脚を運んだことがあるのではないしょうか。

本殿の龍の彫り物です。

これが今回探していた「櫻井義国碑」です。忠岡町墓地の北側、櫻井家の墓のまえに堂々と聳え立っていました。

 石碑の土台の部分にはこの石碑の発起人26名の名前を刻んだ石がありました。聞いたことのある名前もちらほら見受けられます。黒で囲んであるのは右から「絹屋」の絹井楠次郎(管理人は絹屋ファン)、久納久吉、田端辰次郎、など等・・ほとんどが大工さんのようでした。

碑文です。管理人の嫌いな漢文です(涙)さて・・・「大正13年6月」とありますが、よく考えてみましょう。義国師制作の最期のだんじりといわれる泉大津市虫取町の新調が明治14年・・・そう、この石碑は義国師が亡くなる9ヶ月前に立てられたのだそうです。ようするにそれだけ偉大な人だったということでしょう。

(解釈)

君は、静かにして、淡白であり、欲がなく、常に貧しさを、平穏として、彫刻に専念する。一度、刀(蚤)を持てば、神のようになり、あらゆるものに魂が入る。人がたのんでも、自分の気が向かなければ刀を執らず、名声が彫刻界に広まったのは、君のあずかり知らないことであり、又、腕前を隠すこととなり、世渡りが下手な証拠である云々・・・・・・。(嘖嘖は広まる意。)

要するに義国師の名人気質を表しているらしいです。上の文章は「泉州だんぢり談義 十三夜ものがたり」(若松 均著)より引用させていただきました。

忠岡町内の紀州街道の様子です。すこしですが、古い町並みが残っていました。旧櫻井邸・櫻井家もこの近くです。

忠岡小学校です。今現在はすべて鉄筋コンクリートの建物ですが、昔の木造校舎には義国師の手がけた作品がありました。職員室玄関の扇垂木は見事だったようです。。扇垂木といえば旧市並松町のだんじりをはじめ、義国師の十八番です。昭和11年の修復時にこの玄関の天井裏より義国師のものとされるカンナが発見されました。大工道具を天井裏に残すのは「魔よけ」として当時の大工の常識だったそうです。左甚五郎(本物)の京都府知恩院にある「忘れ傘」も同じような役目をはたしているのでしょうか・・・・

以上の文章は「大阪浪花木彫史」(だん吉友の会)を参考にいたしました。

忠岡墓地の近くにある濱之町のだんじり小屋です。

忠岡神社付近の道之町のだんじり小屋

さて・・・櫻井義国師からは少し離れて最近の話題に行きましょう。ここが泉州一のやりまわしの難所と言われる「イズシゲ」です。とにかく写真でもややこしいくらいの交差点です。

このややこしい交差点で祭り本番になればS字、鋭角とさまざまなやり回しが見れます。

奥の青い屋根が先ほど紹介した忠岡小学校です。

おまけです。うちの家で咲いてたアジサイです。栄養分が足りないので小さなアジサイですがこれはこれでかわいいです。

雨水がついているのですこしいいかんじです♪

このアジサイは青っぽいです。葉っぱも小さいです。

編集後記:まさかこれほどまでに櫻井義国の痕跡がのこっていたとは思いませんでした。みなさんも暇なときに忠岡の町をフラついてみては?きっと櫻井義国師の残り火があるはずです。

参考書籍

「泉州だんぢり談義 十三夜ものがたり」若松 均氏

「大阪浪花木彫史」 だん吉友の会