府中町のいろいろ

 府中町は奈良時代には「和泉国」の政治を司る国府が置かれ、平安期には熊野詣の参詣道である熊野街道(小栗街道)が府中町を通り、「蟻の熊野詣」といわれるほどの賑わいを見 ました。今も「小栗街道」として当時の面影を残し、江戸時代には幕府の天領や伯太藩領となりました。

 

 市役所や市民病院、図書館などが府中町にあり、和泉市の主要都市となっています。

泉井上神社(工事中)

五社総社(工事中)

◆和泉国府

 府中町には地名のとおり、和泉国の政治を司る国府が置かれれましたが、現代でも発掘調査をしてみないとその正確な場所は解らないそうです。しかし「御舘」や「小社」の地名などから御舘山や府中西町会付近だと推測されます。

◆和泉宮

 古い資料には元正天皇や聖武天皇の離宮(別荘のようなもの?)が現在の府中町にあったとされ、それが「小社」の地名の由来であるという説があります。「小社」はどう呼んでも(ウグス)とは読めませんが、江戸時代の延宝7年(1667)に書かれた府中検地帳には「をこそ」と平仮名で書かれており、それならば「小社」と書くのもうなずけます。「お」は敬称を示す語であり、社は「宮殿」「御殿」を示す言葉で、「をこそ(小社)」は和泉宮を示す地名と考えることもできます。

国府城(工事中)

小栗街道(熊野街道)

 府中町には小栗街道とよばれる道が南北に通っています。一般に「熊野街道」とも呼ばれますが、泉州では小栗判官(小栗小五郎満重)と照手姫の伝説に因んで小栗街道と呼ばれています。府中町の小栗街道沿いにはいまも昔ながらの旧家がその面影を残しており、その町並みにだんじりがよく映えます。狭い道ですが府中のだんじりはここを走ります。

 ○「小栗伝説」

 室町時代、4代将軍義持の時に体の不自由な小栗判官を彼に恋心を抱いた照手姫や多くの人々が土車に乗せて熊野に詣でたという伝説です。

体が不自由になったことについて謀反を企て追われているときに毒を盛られたという話と毒を盛られて死んだ小栗判官が閻魔大王のはからいにより地上に戻されたという話とがあ ります。その他多くの似通った物語があるそうですが、小栗判官を乗せた土車を熊野まで曳いたという大筋はどの物語も同じのようです。

小栗判官は「小栗彦次郎平助重」という実在した常陸国の武将ですが、彼や照手姫が実際に熊野を訪れた証拠になるものはなにもないそうです。

駅前(工事中)

府中五町(工事中)

◎府中町の位置

大阪府南部の地図です。赤い点が府中町の市役所です。

 

拡大図です。北は黒鳥町・伯太町、東は桑原町、南は和気町、西は井ノ口町・肥子町・泉大津市と隣接しています。 中央の赤い点あたりに南北に伸びている道が小栗街道(熊野街道)

 

アクセス

JR阪和線「和泉府中駅」下車(快速止ります)

年表

西暦(年号) 府中での出来事 世間の出来事

716

(霊亀2年) 

河内国から大鳥郡、和泉郡、日根郡をさいて和泉監が建てられ、現在の府中町に役所が置かれる 710年平城京遷都

740

(天平12年)

廃止され河内国へ 聖武天皇、東大寺大仏建立を発願

757

(天平宝字元年)

和泉国として再建 756年聖武天皇崩御

1504

(永正元年)    

根来衆によって国府城が焼き払われる 戦国時代はじめごろ。水墨画家雪舟死去

1605

(慶長10年)

時の右大臣豊臣秀頼公が片桐勝元に命じ泉井上神社本殿が再建される 山内一豊死去、徳川家康隠居

1727

(享保12年) 

大庭寺藩(堺市)が伯太に移り伯太藩が成立 江戸幕府八代将軍徳川吉宗、享保の改革真っ最中

1871

(明治4年)

廃藩置県により伯太県となり後に堺県を経て大阪府へ編入 廃藩置県、新貨幣制度導入(銭、両→円)

1929

(昭和4年)

阪和電気鉄道「和泉府中駅」(後のJR阪和線和泉府中駅)開業 ニューヨーク証券取引所で株価大暴落。ブラックマンデー(暗黒の月曜日)

1956

(昭和31年)

和泉町、北池田、南池田、北松尾、南松尾、横山、南横山の1町6か村が合併し和泉市が誕生 日ソ共同宣言、日本の国際連合加盟

 

 

 

 

参考文献

「小栗判官の風景」 月山 渉著

  「泉州むかし話第一集」  阿形 賢一著